エネルギーが有り余っていた学生時代に憧れたハードコアな生き方を、大学を卒業して数年経った今出来ているかと当時の自分に問い詰められたとしたら頭を下げる事しかできない。

私はいつしかハードコアを諦めた。

懸命に努力してコアに近づけば近づくほど自分が一般人である事に気付かされる。

そもそもある特定のコアに向かっていた時点でハードコアとは程遠い存在だったのだ。悲しいかな学生の頃の自分よ、君はごく普通の一般人だよ。

では普通について考えてみよう。

あの頃流れるプールを逆走するかのように抗っていた普通、自分もこの一部だと気付かされたからにはここを掘り下げるしかなさそうだ。普通と聞くと何か退屈で正に流れに身を任せるだけの、まるで迷える子羊のようなイメージを思い浮かべていた学生時代。はたして普通とは… 様々な体験を通し、様々な思い出を引き出して導いた普通への解答は、あの日捨て去ったハードコアに匹敵する可能性を秘めていたのだ。それは普通という言葉を文字通り考えればわかる事だった。普遍的に通ずる、それが普通。今私達が”普通”に営んでいるこの生活は一昔前では全くもって”普通”ではなかった。加えて現在進行形で同じ地球上で同じ時間を共有している世界中の多くの地域の”普通”と日本の”普通”は全く異なってくる。

インドのバラナシなどはほとんどパラレルワールドだ。上司の言う”普通”とゆとり世代の自分の”普通”が全く違うというのも一応付け足しておく。過去と現在の”普通”、日本とインドの”普通”に違いがあっては普遍的に通ずるはずの普通ではない。ここに答えは隠されていた。

アレだけ毛嫌いしていた普通は、実は特別な存在とも言えるものだったのだ。そしてそれだけではない。私達の普通は更に掘り下げることができる。特別な存在の中でも更に普通、つまり過去現在どこの場所にも通ずる何かの中に私達はいるはずだ。

それはきっと、悲しい時に泣く、酒を飲むと酔う、楽しくなると小躍りしてしまうといったような、人科のサルとして真っ当な行動のことを指しそうだ。ここまでくるとアレだけ憧れていたハードコアとの差は私の中でほぼ無い。私はこれを大衆コアと呼ぶ。

大衆コアは何か特定の存在を指すものではない。大衆コアはフとしたとこに点在するのだ。

時代も場所も飛び越えて常に私達と共にあり、それはきっと未来にも引き継がれる。

それは人には言えない癖、なぜか思い出してしまうあの夏の昼下がり、小汚くなっても使い続けているソレなどにカタチを変えながら私達の眼前に又は内面に現れる。

これは全てのハードコアを諦めた一般人に捧ぐ言葉だ。普通である事に誇りを持て。

それこそが大衆コアだ。